2009.9.18.
9/16に引き続き,岡山市の「ピュアリティまきび」で会議というか,
産学間連携センター主催の「次世代交流会」に出向いてきました。
このイリュミネーション,夜は金曜だったので,家族連れとかも多く,子どもたちは喜んでいました。
一昨日もチャリしましたが,今日も!!
で,途中で休憩で・・・一昨日は岡山市庭瀬の「撫川城址」でしたが,その隣の「庭瀬城址」です。
【現在、庭瀬城と撫川城との位置関係は僅かに数百メートルしか離れておらず、戦国時代は一つの城であったと思われる。現在の撫川城は東西77m、南北57m、幅15mの濠と野面積の石垣からなり、西半分には高さ4mの高石垣、東半分には土塁が現存している。また、北西端には櫓台と思われる石垣の張出しも見ることが出来、現存する城としては珍しいものである。また、入口にある門は撫川知行所総門を明治になって現在地に移築したものと伝えられている。1957年(昭和32年)に岡山県指定史跡(第1号)指定された。現在の敷地内北側には三神社が鎮座し、撫川城址公園として周辺住民の憩いの場所となっている。】
ということです。
今は神社があります。
で,沼というか堀というか・・・
蓮が素晴らしいそうです・・・時期をちょっと逸したかな?
【室町時代の末ごろ(約400年前)備中松山の三村元親は備前の固めとしてこの地に築城した。附近の地名から芝揚(こうげ)城とも呼ばれた。一帯は泥沼地でひじょうな難工事であった。その後宇喜多の重臣戸川肥後守達安がはいり(1602)古城を広げ城下町を整えた。元禄12年(1699)板倉氏の居城となり明治を迎えた。自然石の石垣をめぐらした堀もよく残り、沼城の典型を示している。寛政5年(1793)板倉勝善は城内に清山神社を建て板倉氏中興の祖重昌、重矩父子を祭り歴代の遺品を収蔵した。(遺品は現在、吉備公民館に収蔵〕(現地案内板より)】
ですよぉ〜〜
これまで庭瀬って通過するばかりであまり知りませんでした。
でも,地図などで改めてみても,こういう沼っていうか,川っていうか,用水っていうか・・・。
でも,もっと昔はこの辺りまで海上交通が入り込んでいたのでしょうね・・。
船着き場っていうか「瀬」っていう地名から考えても・・・。
倉敷美観地区の辺りだってそうなんだもの・・・。
なんか,情緒あります・・・道路は狭いけれど・・。
で城址のところが上記の八幡宮・・・で,その奥は少し公園みたいになって,奥にあるのは清山神社です。
夕陽が斜めに当って,古き建物の輪郭を現にさせています。
さて,残り2/3くらいの道程・・・・ひとっ走り,チャリしましょう!!
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